雛人形の歴史を知ろう
雛人形は何時頃から始まったのでしょうか。起源を遡ると、平安時代または奈良時代にまで遡るという説があります。それ以前には、縄文時代に五穀豊穣や病気や怪我の身代わりに作られた土偶という土で作られた人形がありました。弥生時代には天児(あまがつ)や婢女(ほうこ)と呼ばれる木偶人形を幼児の枕元に凶事を移して負わせる為に置いていたと言われています。
当時は医療技術や科学技術も発達してませんから、必然的に赤子や幼児が病気や怪我をしないように無事な成長を祈る形でこの様な人形が出来たのではないかと言われています。
古墳時代には埴輪と呼ばれる身代わりとしての人形がありました。
元々は中国の唐の時代(618年から917年)に、五穀豊穣・無病息災・子孫繁栄を願い穢れを祓う五節句という風習がありました。それが日本に伝わり、その五節句の一つである上巳の節句という、3月に水辺で心身を清め、病気を祓う風習と日本古来の人形を使ったお祓いが結び付いて現在の雛祭りになったと言われています。
日本には古くから穢れを祓い凶事を避ける多くの風習があります。雛祭りもその一つであります。奈良時代から既に人形や形代というものがありました。平安時代には「ひな」もしくは「ひいな」と呼ばれていた人形遊びがありました。当時は3月の最初の巳の日(上巳の日)にお祓いを行い、人形を舟に乗せて海に流すという風習がありました。疫病が流行り易いため、占い師により無病息災を祈願する行事として人形・紙・土・草・藁等で簡単な人形を作り、酒やお供え物を添えて病気や災いを身代わりに背負ってくれますようにという願いを込めて川や海に流しました。この様な貴族の風習はやがて農民にも広まっていきました。源氏物語にも当時の貴族の遊びとして記述されていました。元々は大人の遊びでありましたが、いつの間にか女児の遊びに変わっていきました。
室町時代の頃にはもう上巳の節句が根付いていました。戦国時代や安土桃山時代にあっても、雛祭りは穢れを祓う儀式として行われていました。
やがて江戸時代になると、雛祭りの風習は庶民にも受け継がれ、女児や女性を祝うお祭りとして多くの人々に伝わりました。女子の「人形遊び」と「節句の儀式」が結び付き、これが全国に広まって雛人形が飾られるようになりました。江戸時代初期には室町雛や寛永雛がメインでした。寛永6年(1629年)には京都御所で盛大な雛祭りが行われました。
この頃から大奥でも雛祭りが行われるようになり、やがてこの習慣は上流階層から町民へ、大都市から地方へと広がって行きました。この当時の雛人形は立雛と座雛でした。立雛は主に紙で作られ、別名「紙雛」とも呼ばれます。極めてシンプルな形で、胴体は厚紙で出来ており、そこに木で作られた頭を差し込んで面相を整え髪つけをしたものです。座雛は寛永(1624年)以降に作られたものであり、立雛が抽象的であるのに対し座雛は写実的であります。上巳の節句の時に対象になっていたのが当時の貴族や武士階級だった頃が立雛だったの対し、それが庶民の間に広まると座雛になっていきました。しかし享保(1716年)頃までは立雛と座雛が対等に飾られています。こうして古今雛(1764年から1772年)に至って男雛と女雛の一対雛人形に様々な道具や調度品が加わり豪華になっていきました。
上方と江戸では雛人形の飾り方が異なり、上方は御殿飾りの2段飾り(御殿内に雛一対を置いて、その他に官女・左大臣・右大臣・桜と橘を置き、他に座敷には天児・這子・犬張子・市松人形・御所人形・お公家様の調度品を置く)、江戸では五段飾り、七段飾り、九段飾りと最上段に内裏雛を置くいう飾り方でした。
雛祭りが庶民の間に広がると様々なひな人形が生まれ、雛飾りを売る店が集う「雛市」が行われるようになりました。雛市は2月の末から3月初め頃にかけて、銀座の尾張町から宝町、駒込、池之端や麹町、人形町、木石町、十軒棚で立てられ、大きな賑わいを呈しました。この頃になると雛売りという行商が雛人形やお飾りを売り歩くようになりました。
江戸時代から享保年間には、雛人形は一層豪華になり、安永年間の頃には古今雛という雛人形が多くの庶民に親しまれました。当時の幕府は再三雛人形の華美を禁じるお触れを出しました。
やがて明治になると、新政府は従来の節句行事を廃止して、新しい祝祭日を制定しました。もうこの頃は現代の雛人形の原型が出来上がりました。豪壮で大型のものが多く、家の権勢を示す証として飾られていました。そして大正の頃になると人形と道具が一式揃う、現在の雛人形に近い様になりました。この頃には派手なものではなく、小型のものや御殿飾りが流行するようになりました。
そして昭和の頃には関西で流行した御殿飾りや、豪華なフルセットの七段飾りが流行しました。時代が進んで平成となり、家庭環境や住宅事情の変化や核家族化でコンパクトになりました。