羽子板の羽根つきで墨を顔に塗る意味について
羽子板の羽根つき遊びで何故顔に墨を塗ることがあるのかについてお話をしていきます。まず羽子板の羽根つきは実は健康をお祈りするための儀式のようなもので羽をつき続けることに意味があり、羽を落とすことで厄災が落とした側の人物に移るということから厄除けをする必要性が生まれました。
厄除けの為にあえて顔に墨を塗ることで回避していたとされています。太古から厄除けに使用されている色という物が日本では、黒か赤になり、お葬式などがまさに黒を厄除けにして死者である側は白い衣装を身に纏いますので黒か赤は厄除けとしてふさわしい物だったのです。
ただ、お葬式の場合、赤を厄除けとしようとした場合、あまりにも明るい色であることと目立つという意味から赤を切るという風習は廃れており、現在では厄除けとして機能する赤色という物は御朱印の他お守りなどが赤となっています。
これも羽子板で考えれば理にかなっており、黒色の墨であれば顔に塗っても今現在でも墨汁かな程度で認識されますが、これを赤色の何かを顔に塗るとなるともしかして血なのではないかと疑われたりした場合、お正月という新しい年を迎える際に周囲はどう思うかということです。恐らくお葬式と同じで赤色というのは変に悪目立ちするが故厄除けで体に塗る場合ふさわしくないのだと思われます。
さて、ここからは、何故、羽根つきで顔に墨を塗るという風習が廃れたかについてです。これについてはおそらく、羽子板の羽根つき自体がスポーツのようなものであるという認識に移り変わることでミスをしたものに対して墨を塗るというのは、一種の罰ゲームでしかなく、相手に対して失礼であるという認識から墨を塗ることは相手の方に対して失礼な行為で身内でもそれを行うのは難しいという考えにシフトしたこと。
もう一つが、単純に顔に何か異物を塗ることへの抵抗であると言えます。
墨は未だに体や顔に引っ付いた場合、異物であるという認識が強く、取れにくいのではないかという認識も未だに強いです。また、墨自体が厄除けの黒であるという認識が周囲に無い場合、やはり顔に墨を塗るという行為は単純に嫌がらせであるという認識しかもたらさず、本来の厄除けで塗る必要性があるという考えが現在の羽子板の羽根つきで墨を顔に塗るという考えに至らないのだととらえられているようです。
この黒を魔よけとして体に施すという文化ですが、日本ではお歯黒という文化があり、これも魔よけとして機能していた文化ですが、急速に廃れます。それはなぜかと言うと、ヨーロッパの人が日本に来日するようになると醜態な文化に見え奇抜な文化に見えたが故、日本人側もヨーロッパ人が普通に歯を晒しているのに、何か自分たちは異なる生活圏にいるように見えるということから急速に廃れた文化になります。
恐らくですが、羽子板の羽根つきで墨を塗るという文化もこの文化に当てはまり、実は海外でも魔よけで体を黒く染め上げること自体が廃れつつあります。その理由は、魔よけの概念がだんだんと薄れてきたことと、多文化が自国の文化に入ることで何かおかしい文化じゃあないか、恥かしい文化じゃあないかという概念が生まれ、近年では、インディアンの方々もショーとしては昔のそうした体に黒い顔料を塗り厄除けの祈祷をしますが、日常生活において厄除けの儀式をすることも少なくなり日常生活で黒い顔料などを使用することはなくなっています。
羽子板の羽根つきで顔などに墨を塗ることは厄除けの意味で塗っていましたが、だんだんと西洋の文化など様々な文化が日本に入ることで、体の一部に厄除けと称して黒い物を塗ることはだんだんと嫌がらせでしかないという風潮へと変化し、羽子板の羽根つきは儀式ではなく、一種のスポーツであるという認識へと変化したので、もはや墨を塗る行為自体がタブーであるとしたのが現在の羽子板の羽根つきになっているようです。
周囲ではいまだ羽子板で羽根つきをしている方がいますがやはり、墨を持ち、墨を塗るようなことはしておらず、その理由も、衣服が汚れることの他、知り合いや友達に対して墨を塗るのは嫌がらせになるという観点から行わないとしています。
お友達の親御さんが恐らく墨を塗ること自体を許可しないためもはや、羽子板の羽根つきの遊びにおいて顔などに墨を塗るという文化は少ないのではないかと思います。伝統を重んじる場合、必要であると思いますが、羽根つきで羽を打ち込む側も罰ゲームを相手に与えるという考えを持てば本来の羽根つきと異なる意味になるため、本来の羽根つきの意図に反するため望ましくないかもしれません。